Hinako Journal

ヒナコ・ジャーナル(Over50な妙齢のヒトリゴトやオモウコト)

昭和を生きた私と昭和に憧れを持つあなた

生まれてから社会に出るまでの子供を過ごした「昭和」、色々な意味で大人を過ごした「平成」、この先第二の人生を過ごすであろう「令和」。区切り良く時代ごとに思い出がパッケージ化されている。昭和について少し語ろうと思う。 若い人の間で昭和レトロブームが来ているのだろうか。テレビでは懐かしの曲をカバーして歌っていたり、年代別のランキングなど多くの番組で特集をしている。プリンアラモード、クリームソーダ、花柄の魔法瓶(ポット)、ノスタルジーなデザイン…。何がそんなに魅力なのだろう。

昭和は64年間(実質63年だろうか)という長い時代であり、戦争という闇の時代を経て高度経済成長を迎え、今の便利で快適な生活の土台が作られた。一番真っ先にあがるのは昭和39年の新幹線開業や東京オリンピックであり「オリンピック景気」という名前がつくほどに好景気だったらしい。私は昭和40年代に生まれたために「歴史」としてしか知らない。 昭和の三種の神器と呼ばれたテレビ・洗濯機・冷蔵庫は物心ついたときにはすでにあった。洗濯機は脱水するところにレバーがついていたような気がする。あの頃の洗濯機には今のような脱水機能など無く、ローラーでのして水分を絞り出すという機能で、せっかちな人だったら絶対に引っ掛けて壊しそうだ。

その後「3C」という「カラーテレビ」「クーラー」「カー」が三種の神器にかわっていく。その中の「クーラー」が家に設置されたことは鮮明に覚えている。ものすごく厚みのある家具のような茶色の「クーラー」だった。クーラーに限らずあのころの家電は茶色の木目を意識したようなデザインが多かったように思える。初めて電源を入れ、冷たい風が出てきたときには家の中でお店のような涼しさを感じることができると感動したものだった。

テレビも今のような薄型ではなく一つの家具のようだった。そこには「回すチャンネル」がついており、その「回すチャンネル」をおもちゃのようにガチャガチャと回して壊したことがあった。私はこのテレビの中に人が入っていると思い、いつもテレビの後ろの隙間を覗いてはどこにいるんだろうと探していた。テレビというのはカラーであることは当たり前であり、今や「8K」など何がすごいのかよくわからないがもしかすると現実よりも美しい映像を映し出している。3Cと言われていたころは「カラーテレビ」とカラーが強調されていることから、カラーということは本当に画期的なことだったことがわかる。しかも屋外アンテナではなくテレビの上に室内アンテナが設置されており、テレビの上にうさぎの耳のようにちょこんと乗っていた。

 また家にステレオというものはなくおもちゃのようなレコードプレーヤーがあった。そのレコードプレイヤーも手回しして遊んでいたので何度か壊したような気がする。もしかしたらDJの素質があったかもしれない。「レコードに針を落とす」という言葉は今や死語であることを何かで読んだ。実際にレコードプレーヤーを知らなければその感覚はわからないだろうし、「レコードに針を突き刺すという意味ですか」となるのは仕方がないことだと思う。今でもあの頃のデザインを生かした「レコードプレイヤー」が販売されていることに驚きだそして、テレビから流れる歌手の曲をカセットテープに録音しようとして、「絶対に喋らないでね」という声まで録音されてしまうのは昭和のお約束だった。昭和50年〜60年代になるとダブルカセットデッキなどという画期的なものが出て友達からカセットを借りては「ダビング」したりした。ダビングには基本的にはそのカセットの長さ分の時間がかかるが、画期的なものは二倍速などの機能があったような気がする。

色々なことが進化していったが、それでも「インターネット」や「スマホ」などの便利グッズはまだまだ映画の中の世界のものであり、待ち合わせで遅れる際も連絡することができずに「すれちがい」が起こることもあり、それを利用した恋愛ドラマも多かった。

亡くなった母の遺品を整理をおこなうために、クローゼットの洋服を手に取ったときに妙な違和感を感じた。母は器用な人でほとんどの洋服は自分でビーズをつけたりなどリメイクが施されていたが違和感はそこではない。ほとんどのカーディガンやシャツに「肩パッド」がついていたからだった。そもそも「パッド」なのか「パット」なのか悩むくらい今では見かけないが、確かに昭和の洋服にはジャケットだけではなくトップスにも「肩パッド」が入っていた。母は平成になっても針を持ちトップスに肩パッドをつけていた。「今は肩パッドなんて流行ってないよ」と何度か伝えたことがあったが、聞く耳を持っていなかった。母にとっては平成や令和は第二の人生を過ごした時代であるがそのほとんどが病気との戦いだった。戦争や何もなくなってしまった苦しい時期を過ごし、その後結婚し私を育てあげ生きたという実感を感じたのは「昭和」だけだったのだろう。だから時代が変わっても「肩パッド」をつけ続けることでずっと「昭和」を生きていたのだと思う。

私は昭和40年代に生まれた。後半の20年間しか生きておらず、しかもその中で大きく記憶に残っているのはその中の10数年だと思う。だから闇の時代を知らず、高度成長期以降の明るい時代の印象しかない。私にとっての昭和は「子供時代」であり、子供ながらの苦悩はあったものの今のように生きていくことに関して「責任」を負うことがなかった。だから単純に懐かしいと思える。ただ昭和をずっと生きていたいと思ったことは一度もなく、またあのころに戻りたいと思ったこともない。時々10代のころに戻って今の教育を受けたいとは思うことはあるが、決して昔に戻りたいわけではなくやはり今を生きたいと思う。

若い人がレトロに憧れを持つのは、一律化された今の時代と異なった個性的なデザインであるという単純な理由ではないかと思う。

今の時代、物質的な「進化」に対しては頭打ちになっている。これから時代を作り上げるのはコンテンツや目に見えないものなのかもしれない。作り上げるという思いは時代がかわろうとも一緒であり、目に見えるあのころのレトロにその思いを馳せているのではないかと思う。まだ見ぬこの先の時代はどうなっていくのだろうか。私には時代を変えるほどのことはできないだろう。 けれど小さな形でいいから自分の人生を作っていければと思う。