とある電車のドアの横にそのタイトル本の広告が貼られており、少し近づいてみると「泣きながら読みました」といった感想が書かれていた。正直その本を読みたいとは思わなかった。それはたぶん他の人の考えを知るのが怖いのだと思う。ただ「もしあと1年で人生が終わるとしたら?」という言葉は漠然としながらも私の中に刺さっていた。人生が終わるのが三十年先なのかあるいは明日なのかはわからないが、少なくとも人生の折り返し地点をすぎている今、この先どのように生きるのかを考えてしまうことが増えた。本来は先の人生設計を考える年代なので当たり前のことだがなかなかポジティブになれない。だから目を背けてしまう。
もしあと1年で人生が終わるとしたら
私はストレスがたまると物欲が大きくなる傾向があった。洋服はクローゼットに入りきれないほど増え、パソコンやタブレットなど一台あれば十分なのに新製品が出るたびに購入することがあった。また最近ではなぜか植物が増え続けている。それらを自分のそばに置いておきたいという思いもあるが、買うという行為がストレス解消する。しかし人生の終わりが見えているのであれば物を残すことに意味がなくなりその価値が無くなる。結局物を買い続けるのは終わりが見えていないのだと思う。
やりきったとは言えない人生だったと思う。そして志といったものを掲げて生きていなかった。それでも自分なりには全力で走ったと思う。仕事や恋愛での岐路は何度かあり別の道を選んでいたらと思うことがある。やり残したことがあるとすれば過去にもどってその別の道を選ぶことかもしれない。しかし今さら過去に戻ることはできないし、また改めて選択し直したとしても今より幸せになる保証は何もない。不満や不安はありながらも今はそれなりにはすごせているような気がする。
そんな中で、もし人生の終わりが見えているのであれば、仕事や身の回りの面倒なことを捨て、お金のことも考えず、恋人のために生きたい、愛に包まれ日々優しく温かい時間を過ごしたい。他愛のない話をして笑ったり、美味しいものだけを食べ、そしてお互いが壊れそうになったら静かな空間の中でただ寄り添う。その繰り返しだけで過ごせたらどれだけ幸せだろうか。ただ、恋人はそんなことを望んでいないかもしれない。想いの大きさはは同じだったとしても私と恋人の想いの形はそれぞれ異なる。自分のことしか考えられない私は歳を重ねても精神的に幼いのかもしれない。しかし振り返ると自分の思いを飲み込むことが多かった。そしていつも過剰なほどに気を使っていた。私が愛に包まれて過ごしたいと思うのはわがままなのだろうか。でも私一人の想いだけではどうしようもなく強要することはできない。でも心のどこかでギブアンドテイクを求めており、結局はひとりよがりなのかもしれない。 そんなことをふと思った。
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人生には必ず終わりがあるはずなのに理解することができない、あるいは理解した上で諦めてしまう。日々なんとなく過ごしてしまうのはどこかで「明日が来る」と思っているからかもしれない。「明日が来る」保証なんてどこにもなく人生のカウンドダウンが始まって初めて気がつくことがある。今はまだカウントダウンされている意識はない。だからやはりどこかで明日が来ることが当たり前と思ってしまう。しかし本当に始まったとしたら私はどんなことを思うのだろうか。ひとりよがりなことを思うのだろうか。大切に思うもののためだけに生きることができるのだろうか。実現できるのだろうか。 ただ、優しく温かい時間を過ごしたいと思うことは、わがままではないと思いたい。