Hina Journal

ヒナ・ジャーナル(Over50な妙齢のヒトリゴトやオモウコト)

そこに愛はあるんか、そこに義はあるんか(言論の自由について)

イーロン・マスク氏のtwitter買収の記事を読んだ。正直その内容よりも個人が企業を買収できるくらいの資産があるという事実に驚いた。私の資産はいくらあるのだろうと某家計簿アプリで確認してはため息しか出ない。この買収によってどのようにtwitterがどのように変化していくのかはわからないが、イーロン・マスク氏は買収に関してこのよう以下のように言っている。

言論の自由は、民主主義がその役割を果たすための基礎であり、Twitterは人類の未来を議論するために不可欠なデジタル上の街の広場だ。また、新機能による製品の強化、アルゴリズムのオープンソース化による信頼性の向上、スパムボットの撃退、すべての個人を認証することによって、Twitterをこれまで以上に良いものにしたいと考えています。Twitterは非常に大きな可能性を秘めています。私は、会社やユーザーのコミュニティと協力して、その可能性を解き放つことを楽しみにしています。

言論の自由が当たり前でない国が多い中、今の日本は「言論の自由」を意識することなく日々過ごしているが本当に自由なのだろうか。もちろん検閲を受けるようなことはないのでそういう意味では「自由」ではあるが、日々のニュースやtwitterなどに接していると疑問に思う。ここでは政治やマスコミといった大きい話ではなく、あくまでも個人の話として書く。

たとえ誹謗中傷でなくとも傷つくことがある

SNSによる言葉の被害にあっている方が増えている今、twitterやエッセイ(と読んでいいのか)を「はてなブログ」「note」に投稿しているが誹謗中傷を受けたことはほとんどない。それほどフォロワーが多くなく投稿数が少ないからかもしれない。匿名という自分の意見に責任をもたない中でバカにしたり暴言を吐くなんてことは言語道断である。ただ第三者からみたら暴言などではないが個人的な状況や心情により傷つくことは結構あるのではないだろうか。たとえば励ましの言葉により自己嫌悪に陥ったり、人の幸せな姿に僻みに似たような感情をおぼえることがある。そしてそのような感情を感じたことがある人は逆に自分の発言によってそう思わせるのではないかと発言を避けSNSから離れていく。振り上げた拳の行き場に困るようなことは結構ある。そう思うならばSNSなんてやめてしまえばいいと思われるかもしれないがそれは言論の自由と言えるのだろうとふと思う。

平等でなければいけないのではと思う

時間は無限でない。SNSなどに費やせる時間が短い中で出会えるものはトップで表示されるものだけになる。例えばその投稿に共感をしたとしても、時間の関係でその人にだけにしか反応できないことが平等でないと思い結局は行動に起こさない。私とその人だけの関係性であれば何も問題はないが、長い期間SNSをやっていると横のつながりができ、そのつながりに対しては平等で接したいと思うことで無理が生じる。またそういった中で褒め合う世界観が見えることがあり暴言や嫌がらせとは異なる居心地の悪さがある。その理由ははっきりとはわからないが、たぶん私がSNSに向いていないからだと思う。

そこに愛はあるんか 義はあるんか

どこかで聞いたことのあるフレーズだ。

そこに愛はあるんか?

某消費者金融のCMの中でおかみさんに扮する大地真央さんが問いている。このCMを見るたびにこの会社とフレーズの関わり合いがわからず不思議に思っていたが、どうもその会社名と「愛」をかけているものとのことらしい。

authenticating all humans

twitterを実名制にすることと思われるが、これにより発言に責任を持たせようとしてしているのだろう。「実名で堂々と言えることを発言することこそが真の自由」という考えがアメリカにはあり、確かにそのとおりと思う。とはいえちょっとした心の内側をさらけ出す場所ではなくなりtwitter本来の「つぶやき」は消えてしまうような気がする。先にも書いたが褒め合う世界がいいとは思っていない。そこに意見があれば発言すればいいと思う。

1度口から出しちまった言葉は、もう元には戻せねーんだぞ… 言葉は刃物なんだ。使い方を間違えると、やっかいな凶器になる… 言葉のすれ違いで一生の友達を失うこともあるんだ…。

『名探偵コナン 沈黙の15分』の中でコナンが発したものだ。その言葉の正しい使い方というのが愛と義であり言論の自由の成功ではないだろうか。

昭和の時代は一個人が世界に向けて表現することはとてつもなく難しいことであったが、今は見てもらう努力は必要であるものの誰もが表現でき夢が広がっている。twitterだけでなくSNSなどはすべて人類の未来を議論するために不可欠なデジタルの広場であってほしいし、若い人だけでなくこれから第二の人生を歩んでいくだろう私たちの世代以上の人にもその議論のチャンスを実現する広場であってほしいものと思う。


そんなわけで愛と義をもって植物の写真を以下に載せる