Hinako Journal

ヒナコ・ジャーナル(Over50な妙齢のヒトリゴトやオモウコト)

人生という言葉は「不安」と同意かもしれない

見失っていた私自身を取り戻しつつある。ただ取り戻すということは現実を直視するということでもありこの一ヶ月間は仕事のことを考えている時間が増えた。今の私のミッションは風呂敷をたたむような業務でありそれは前向きなことではない。調整や連携がうまくいかず板挟みになり胃が痛い日が続いている。私は組織に所属しており当然任務として遂行するが、正直いうと会社のためというよりはチームを守りたい思いが強い。ただ守ることがチームにとって、またはメンバーにとって正解なのかわからない。私の発言で方向性が変わっていくかもしれない。何か重りのようなものがのしかかっているような気がした。

その重りは「不安」という名前なのだろう。

「過去、現在、未来」の全ての私の人生は「私のもの」と思い込んでいる。しかし「私の人生」は私だけで出来上がっているわけではなく、たぶん99%は私以外の素材で成り立っているからコントロールすることができない。

なるようにしかならない

そういう結論を出さざるをえないのはそれが原因なのだろう。

いろいろな悩みはつきない。「ダイエットしているのに月見バーガーを食べてしまいその後どうすればよいか」「明日のワクチン接種の副反応について」そして私の構成軸の「仕事」のことなど一歩踏み出すたびに「悩み」が増えていく。それは「悩み」ではなく「不安」なのだろう。普段「人生」という言葉を使うことはほとんどないのは、自分を語る意味が見いだせないからかもしれない。99%が自分以外の素材で出来上がっている人生をどうにかしようとするには第三者や自分が手出しできない環境を変えるしかなく、他力本願したところでどうしようもないことがわかっている。それでも目の前にある不安をなんとか取り除きたいと思うは当たり前でそんなとき人は「人生」という言葉を発する。その人生は「不安」と同意なのだろう。共感してほしいがために「不安」を伝え、「肯定」するために答え合わせをする。

それは前向きな人生設計ではないかもしれない。それでも生きていく上で心を安定させることは必要で、それがなるようにしかならなない人生だとしても全てを諦めず「肯定」したことで生まれた小さな希望を糧にのしかかった「重り」を捨てていくのもあるのではないだろうか。